Essay A |
日本において英語を第二公用語としたらどうかという意見が最近出ているようですが、私はこの考えに全くもって反対です。私は実際に中学から英語の勉強を続け、大学にも英語の力で入りました。ですから、日本の英語教育の現状、学ぶ側からの見た不満や、受験英語を勉強してきたことのメリット、デメリットなどさまざまなことをわかっているつもりです。それに大学では全く新しい言語ポーランド語を専門に学び、言語を習得するということについては身をもってさまざまな苦労をしてきました。その立場から意見を言わせて頂いても、反対です。まったく意味のないことだとは思いませんし、日常生活の中のさまざまな標識などに英語が加われば、子供達は自然と英語に接することができるようになりますし、英語に対するイメージも変わるでしょう。それはとってもいいことです。しかし、私が言いたいのは、「英語を第二外国語にすれば、日本人の英語力が向上して、国際競争に勝ち残っていけるだろう」という考えをすること自体が甘い、ということです。英語教育の問題点は以前から散々挙げられていますが、それにもかかわらず、ほとんど改革はされていません。その日本の状況こそが問題なのです。そもそも、学歴社会の中で、大学入試に特殊な英語力を要求してきたのは国です。ですから、そこから変えていかなければ、教育方法は変わりません。教育方法が変わらなければ、日本人の英語力は向上するはずもありません。日本人が能率の悪い英語学習に必要以上のお金をつぎ込んでいることは大きな問題と言えるでしょう。表面的な改革ではなく実質的な教育改革が必要となってきているのではないでしょうか。 |
Essay B |
私は、英語を第二公用語にするという動きには反対である。 まず、公用語というものは、目的があって、設定するというより、現状で使われているかどうかを考慮して決定すべきであろう。つまり、話せる人がそれなりにいて、第二公用語として成立するのであって、何かの状態を作り出すためにそうするべきではない。もし、今、英語を第二公用語としてみても、「英語を話せる」という人は、日本では絶対的に少数派なのだから、「第二公用語である英語」は、有名無実化し、意味をなさなくなるだろう。「第二公用語」とはいっても、「公用語」なのだから、ネイティブ程度に話せる人が全体の数十パーセントをしめるくらいであるべきだと考える。今の日本で第二公用語とするのは明らかに非現実的であろう。 第二に、国際競争に勝ち残ることに、英語が第二公用語であることは、必ずしも必要ではないということだ。国際競争に残っていく国全てが、英語が第二公用語ということにはならないだろう。第二公用語にしなくても、話さなくてはいけない人は勉強して努力するだろうし、少なくとも、フランスやドイツなどの人々はそうであるはずだ。英語を第二公用語にすることと、国際競争力をつけることは、ある意味で、無関係ともいえるのではないだろうか。 最後に、「公用語」というのは、その国民のアイデンティティーに関わるものだと思う。その国民の歴史や性格は、話す言葉に表れるからだ。その意味で英語は、日本の第二外国語になるほどには日本人のアイデンティティーには関わりのないものだろう。 |
Essay C |
私が思うに、英語を勉強するべきなのは「外国に行きたい」あるいは「外国の人と話してみたい」という人だけでいいような気がする。なぜなら英語圏の国への旅行に行きたい人は現地で過ごすためには多少なりとも英語の力が必要だと思うからだ。「郷に入っては郷に従え」という日本の諺が示しているように現地の言葉、文化を勉強してから行けばいいと思う。外国人と話してみたい、あるいは友達になってみたい、という人にとっても英語というのはとても重要なパートではないだろうか。もし、相手の外国人の母国語が英語ではないにしても、英語という共通語を通じてお互いの言葉を教え合ったりもできるのだから。 別の観点から言えば、英語ほど第二公用語としてふさわしい言語はないと思う。その発音の単純さ、文法の簡潔さから考えてみても他の諸言語を圧倒するほどのわかりやすさをもっているのが英語ではないだろうか。日本人にとって、LやRなどの発音の違いがあったとしても、フランス語の発音、やロシア語、ポーランド語などの複雑な文法をもつ言語よりはるかに簡単なものだから。 つまり、「俺は英語を使わなくても生きていける」という人に英語を無理矢理勉強させることは」ただの押し付けでしかない。きっとその人には何か自分の夢中になれる他の分野があるのだから、その分野に関連した勉強をすればいいと思う。大学はそのような典型的な例だと思う。楽しみながら英語を覚えていく、そういった方法で英語が勉強できたら、きっと多くの人が自分からすすんで勉強するはずだ。 |